http://martinfowler.com/bliki/DiversityImbalance.html

2012/01/11

簡単に慣れてしまうものだが、 ソフトウェア開発の世界で多様性の問題が深刻なのは明らかである。 つまり、一般的な人口比と比べると、その比率に顕著な違いがあるのだ。 最も明らかなのは、女性の比率が低いことである。 これは世界的にそうなっている(中国ではそうでもないが)。 アメリカでは、私は人生の大部分をここで過ごしているのだが、アフリカ系アメリカ人が少ないのも明らかである。 このような不均衡が存在する理由や、 その対策について書かれたものは数多く存在する[1]。 だが、私はより根本的な問いに集中したいと思う——これは重要な問題なのだろうか?

女性はプログラミングの適性や傾向を持っていないので、 こうした多様性の不均衡は自然のことだ、という意見をよく耳にする。 この考え方に気分を害する人は多い。 しかし、私は真面目に考えてみることが大切だと思っている。 ここでは「自然均衡仮説」と呼ぶことにしよう。 真面目に考えてみる必要があるのは、 これが現状を説明していると感じている人が多く存在するからだ。 しかし、ここには重大な欠陥が2つある。 これは積極的に否定しなければいけない。

1つめの欠陥を指摘するのは簡単だ。 世界には女性が(おおよそ)50%いる。 したがって、 この比率が自然ではないという証拠がない限りは[2]、 コンピュータ業界にも女性が50%いなければいけない。 だが、今のところそのような証拠はない。 もちろん、男性と女性に生物学的な違いはある。脳機能に違いがあるという証拠もある。 しかし、「優秀なプログラマに必要な能力は、普通は男性が持っている」ということを示す証拠はない。

自然均衡仮説を支持する人たちは、 女性プログラマが少ないことだけを証拠と思っているのだろう[3]。 論理的思考が得意とされているソフトウェアの専門家がそんな循環論に簡単に陥ってしまうのは問題である。

これが議論の中心になる2つめの欠陥だ。男性は何世紀もこのような論拠を使って、あらゆる分野における女性の平等権を否定してきた。この論拠が正しくないという証拠は、20世紀でいくつも目にしてきたはずである。それなのになぜソフトウェアの世界ではいつまでもこれを正しいとするのだろうか? この粗悪な歴史をもってして、我々は「多様性の不均衡は自然だ」という主張を慎重に警戒しなければならないのだ。 誰かが生物学的な違いがあるという適切な証拠を見つけない限りは、 女性も男性と同じようにプログラミングに向いているという仮説を前提にして行動しなければいけないのである。

私が「適性や傾向」と言ったことに気付いたかもしれない。 自然均衡仮説の支持者の多くは、 女性は男性よりもプログラミングの適性が劣るとは言わずに、 女性はプログラミングをする傾向がないと言っているようだ。 傾向も適性も同じことだ。どちらも証拠はないし、同じように粗悪な歴史がある。

それでは、 多様性の不均衡に適切な理由がないことを受け入れるとしたら、 このような不均衡は重要なのだろうか? つまり、不自然な不均衡があるならば、それは是正に本気で取り組むような問題なのだろうか? 私は、取り組む理由がいくつもあると思っている。 第一に、道徳的な理由だ。 私は熱烈な実力主義者であり、 誰もが可能性を開花できるような、 機会の平等を与えられた社会にすべきだと考えている。 多様性の不均衡というのは、 プログラマとしての優れたキャリアを築きたいが、 そうする機会が得られない女性が数多く存在することを意味する。 多様性の不均衡があるというのは、我々が思うほど実力主義ではないということだ、というEric Riesの考えに同意する。

このような無駄は、我々の職業にも有害となる。 我々は、生活を豊かにする価値のあるソフトウェアを作れるような、もっと多くの優秀なソフトウェア開発者を必要としている。 女性が職に就けないとなると、我々にとって不利な状況となる。 将来的に才能に対する需要が増えれば、もっと深刻なことになる。 人材の大部分を無視しておきながら、 最高の人材を雇用しているとどうして言えるだろうか? 多様性の不均衡の修正に対するよくある批判は、 資質の高い女性の雇用に失敗しているのであれば、 資質の高い男性の雇用も失敗するおそれがあるというものだ。★

多様性の欠如というのは、それ自体が問題である。 考えというのは人によって違う。その結果、問題の解決方法も違ってくる。 同じバックグラウンドを持つ人ばかりだと、多くのアイデアを見失ってしまう。 これはつまり、非生産的なことであり、イノベーションの欠如になるということだ。 通常、多様性のあるグループというのは、より効果的なものである

この多様性の欠如は、我々の職業の過小評価にもつながっている。 専門外の人から見たプログラマの意見というのは、本来あるべきほど真面目に受け取られていない状況にある。 我々を単なるナードだと片付けるようなビジネスピープルと議論をするとよくわかる。 多様性の不均衡によって、過小評価してもいい部外者だと思われてしまうのだ。

このままにしていたら、不均衡はさらに悪くなる。 人というのは、自然に、しばしば潜在意識的に、自分と同じような人の周りに集まるものだ。 その結果、集団が少数派になれば、排除されるのである。 彼らは「適応しない」とそっぽを向かれるときが警告サインだ。

ソフトウェアの職業には、優れた将来性が多くある。 我々は、 実力主義の傾向が強く、 生活をより良くするためにコンピュータの力を使える最初のポジションにいて、 自分たちや仕事をどのように体系立てるのかを示す歴史的障害がない。 その結果、他の社会的集団に影響を与えるモデルを提供することができたし、人々が協力し合える方法を率先して示すこともできた。 多様性の不均衡は、そのような立場にいる者にとってのガンだ。 何世代も前の世界からやって来たような多様性しかないというのに、どうして自分たちが先進的な考えを持っていると言えるだろうか?

[1] この記事を書き始めたのは2年前のことだが、なかなか書き進めることができなかった。 多様性の不均衡を修正する核心的なことを言えなかったからだ。私は、自分の書いたものによって、読者に何らかの行動がとってもらいたいと思っている。それができなかったために、本稿を眠らせておいたわけだ。しかし、「女性のプログラマがいないのは、適性や傾向がないからだ」と言う人たちにはウンザリしており、本稿を投稿することにも価値があると考えたのだ。 just so I could give that argument both barrels.★

[2] 具体的な事例を使うと、議論がうまく流れることに気付いたので、男女の多様性の不均衡の例を使っている。その他の多様性の不均衡にも同じ論拠が使える。人種差別の歴史は特にそうだ。

[3] 女性のプログラマは現在ではめずらしい。しかし、70年代はそうではなかった。この変化が、自然均衡仮説に対するもう1つの論拠になる。