ソフトウェア業界において私は、著者として、講演者として、非常に多くの一般的助言を与えてきた。DecoratedCommandのような詳細なものにしろ、ソフトウェア開発の心構えのような哲学的なものにしろ、私の生み出す「ノイズ」はとどまることを知らない。また、私は一般的助言提言者界(著者、企業アナリスト、ジャーナリスト)の多くの人々のうちのただ一人にすぎない。この業界は、ひとりの人間が読みきれないほど大量の助言を生み出している。

かのように多くの一般的助言を示してきたにも関わらず、 それらの価値が致命的に制限されてしまうことがある。

  • 一般的な助言とそれをどうやって実際の環境に適用させるかの間には、常に深い溝がある(コンサルタントが「場合による」と言ってバカにされる原因がこれだ)。私ひとりが君たちの案件すべてを熟知し、制約を隅から隅まで知ることなど出来るわけがない。だから君たちは、私の「生焼けな意見」を自分たちの環境に適用させながら、見事焼き上げなければならない。私は「常にこうしろ」というふうに聞こえてしまわないか絶えず気を配っている。それゆえ、複数の選択肢を提示できるよう心がけている(「場合による」は良い答えだ。そこで君がどんな場合があるのかを聞けばよい)。ただし、私がどんなに選択肢について的確に述べたところで、最終的に重み付けをし、どれを環境に適用させればよいかを決めるのは、常に読者自身である。

  • 私も含め、何かを言及する者は、自分の経験則によって制限されている。ソフトウェア業界では、その経験則さえも非常に限定的なものである。ひとりの人間がキャリアのなかで経験できることなどさほど多くはない。確信を持って他人に話せることなど、そうありはしない。まして、産業が急速に変化するのであればなおさらである。私は人脈をもってして多くの経験則を集めるようにはしているが、それでも全ての分野をカバーするにはまだ少ない(だんだんと、自分自身の経験則ではなく、他人のそれに頼るようになってきている。実際の開発をする機会がなくなっているからだ。それに、私の限られた経験からよりも人脈から得た情報のほうが役に立つからだ)。

  • モノ書きにとって何が原動力となっているかは、多くのひとが気になっていることだろう。不純な動機の罠に陥り、偏った意見を述べるよう仕向けられている、という面白い意見もあった(★)が、んなこたぁない。私は、自分が言ったことに対して、金勘定が関与しないよう極力努めている。が、しかし、それを私自身が証明することは難しい。ベンダーについてアナリストが何かレポートを書く際、何か悪いお金が絡んでいるんじゃないかと、私も懸念している。そんな汚いお金で意見が偏らないよう私は努めている、と言ったところで油断はできないし、そのように努めるには集中が必要だ。

これらの制限があるにも関わらず、一般的な助言に価値があるのか?という疑問が湧いてくるだろう。私は価値があると思う。なぜなら、一般的な助言は意思決定をする際のスタート地点を示してくれるからだ。一般的な助言は、忘れがちな論点を想起させてくれる。重要なのは意思決定に責任を持つことだけではなく、一般的な助言を、取り込めるだけ取り込むこともまた重要なのである。