伸縮ジョイント
過去に講演をしていた頃、私の能力のひとつは「時間通りに終わらせること」だった。たとえ(前の登壇者の時間オーバーなどで)直前に私の講演時間が短くなったとしてもだ。私の能力の鍵だったのは「伸縮ジョイント(Expansion Joints)」である。これは、持ち時間に応じて、はやく進めたり、ゆっくり進めたりできように、あらかじめ用意しておいた部分のことだ。
私がやっていたのは、いくつかのトピックをオプションとして計画する方法である。その部分をスキップしても講演は成立するが、逆に5分(や10分)かけてだらだら話すこともできる。理想的には、トピックごとに1枚のスライドを割り当て、いくつかのキーフレーズ(話すときの見出し)を並べておく。そのスライドに来た時点で、残り時間を確認するのである。時間が足りなければ(たいていはそうなのだが)、「そのためには、考慮すべきことがさまざまあるが、それは本日の講演のスコープ外である」などと言いながら、30秒程度でそのスライドを終わらせる。
時間が余っていれば、そのトピックに時間を使うこともできる。スライドはシンプルであり、視覚チャンネルもほとんどないが、大したことではない。もともとそのスライドはオプションだったからだ。
1枚の調整スライドは使いやすく、私のお気に入りの伸縮ジョイントだった。ただし、オプションのトピックであっても視覚チャンネルが必要になることもあった。そうした場合はスライド操作で乗り切った。プレゼンツールには講演中にスライドをスキップする機能がある。私はその機能の使い方を練習して、聴衆に気づかれないように複数枚のスライドをスキップできるようにしていた。重要なのは「聴衆に気づかれない」という点である。「時間がないのでこのスライドは飛ばします」と言うのはみっともない。ただし、そのためには講演中に自分でパソコンを操作する必要がある。リモコンだけを渡されて、会場のどこかにあるパソコンのスライドを投影する場合は制御できない。最後の数年間はそうした状況が多く、ひどく苛立ったものである。
講演を考えているときは「話すことがなくなるのではないか」といつも不安だった。実際には、時間内に話せないくらい内容を詰め込みすぎてしまうのだが……。だが、伸縮ジョイントがあるおかげで、講演の核となる部分を思いっきり削ることができた。足りない部分は伸縮ジョイントで補完すればいいからだ。実際に伸縮ジョイントをほとんど使うことはなかったが、その存在が自信につながった。
私はリハーサルをしないので、伸縮ジョイントが非常に重要だった。私のプレゼン能力はアドレナリンに突き動かされていたのである。ゴム製のアヒルを相手に練習しても効果はなかった。私と同じくアヒルも退屈そうにしているのは明らかだった。したがって、はじめてのテーマで講演するときには、どれくらい時間がかかるのか見当もつかなかった。だが、伸縮ジョイントのおかげで、時間通りにきっちりと講演を終わらせることができた。
伸縮ジョイントがあれば、同じ講演でも異なる時間に対応できる。講演時間は30分のときもあれば、45分のときもある。だが、伸縮ジョイントがあれば、スライドを変更する必要がない。直前に時間が削られたときには(滅多にないが、時間が延長されたときも)伸縮ジョイントは便利だった。(後年は講演スイートという別の方法で対応していた)
聴衆とのやり取りが発生する講演では、どれだけ時間がかかるかわからないので、この仕組みが必要だった。質疑応答が延々と続くこともあれば、(特にスカンジナビアやアメリカ北中西部では)質問がまったくなく、予定をすぐに終えてしまうこともある。そうした講演では、時間調整のスライドが2倍必要だった。
伸縮ジョイントが最も役に立つのは講演の後半である。残り時間を把握しやすくなっているからだ。前半でも役に立たないわけではない。特に聴衆とのやり取りのあとで自分のタイミングを立て直すときに有効だ。
さらに詳しく知るために
この名前はNeal Ford, Matthew McCullough, Nathaniel Schuttaの著書『Presentation Patterns』でつけられたものだ。